2011年09月11日

河野裕子の思い出

@一枚のハガキ

叡電の停車場近き岩倉に河野裕子のサンダルのあり

 15年ほど昔の僕の歌だ。
 河野先生に初めて会ったのは1994年の京都の塔短歌会の歌会であった。僕は短歌をやりたい気持ちと他のことにも目がいって集中できない気持ちとが併存していて、とても中途半端だった。そんな僕であったが、河野先生はいつも突然電話してきて、僕に歌を作ることを要求してきた。
 僕の手元に一枚のハガキがある。僕は1995年の秋頃、河野裕子に柿とナツメを送った。いずれも実家で採れたものであった。河野裕子はよほど嬉しかったのか、すぐに電話をしてきて、かつ、ハガキを書いてきた。そこには「ナツメも嬉しいけど、歌はその何倍も嬉しい。」とあった。僕はそのハガキを後世大事にしてきている。オーバーな表現ではない。僕はこのとき以来、なんと10回もの引っ越しを繰り返しているが、手紙類であるのは、このハガキと母親から大学入学後にもらったたった一度だけのハガキのみである。
 僭越ながら、僕にとって河野は母親と同義と言っていいのだ。それは娘さんの紅ちゃんと同い年、という年齢的なものだけではない。小学校時代の恩師である西藤光美氏から真中氏を通じて僕は大学一年生の春、河野裕子に会った。僕は中途半端な気持ちで歌に取り組んでいたため、次第に河野裕子に会うことがしんどくなってきた。それでも最後に会ったのは京都の洛北の新聞社の主催する歌会のイベントだったと思う。河野裕子は参加者として、僕は見学者として出席した。河野裕子は目敏く僕を見つけてくれて何か言葉を交わした。僕がわざわざそのイベントに来ていることに彼女は相当驚いていた。

 その後、直接河野裕子や永田和宏に会うことは無かったが、紅ちゃんの親友の辻潤子と僕が友人であったこと(今もそうだ)や、年に数回は京都に行くが、そのたびに寺町二条の三月書房で歌集や塔のバックナンバーを買うのが僕のなによりの楽しみであったのだ。そしてそのたびに僕は河野裕子のことを思うのであった。いや、河野裕子を思うからこそ、京都に通ったのだ。

A岩倉実相院
 1998年に僕は上京してしまったが、それ以降僕は、ほぼ上洛する度に岩倉実相院に通っている。春夏秋冬、紅葉の時期を除けばほぼ誰もいない。僕は京都にいたときは竜安寺の目の前に住んでいたので、石庭を見るならそちらに行けば良いのだが、どうも昔住んでいたところと言うのは生々しくて仕方ないのか、自然と岩倉に足が向かうのであった。左京区への憧れかもしれないし、高速バスで上洛した後、くらま温泉に行くのが僕の日課なので、その寄り道であったことも影響しているのかもしれない。しかし、なによりも実相院の庭は実は石庭だけではなく、普通の(というか緑の)庭があることがとても良かった。石庭と緑の庭を交互に見るのである。飽きない。たとえは良くないかもしれないが、サウナと水風呂に交互にはいるようなものである。河野裕子が岩倉の上蔵町に住んでいることはもちろんよく知っていた。だから僕はいつも偶然会いたいような気恥ずかしいような気持ちを抱えつつ、岩倉に足を運ぶのが常だった。それが冒頭の歌である。
 実相院は僕にとって重要な場所である。
 仕事に疲れたとき、どうしようもない悩みがあるとき、あるいは何でもないとき、僕は実相院に行く。そこでなにをすることもなく庭を眺めていると次第に気持ちが解れてゆくような気がするのである。よしもう大丈夫、明日から頑張ろうとなるのだ。それは決して訪問することのない河野裕子がそこに住んでいるということもやはり関係していると言わざるを得ないのである。

B竜安寺
 いつのときだったか僕が京都に住んでいたときに、河野裕子は「まあ懐かしい」と声を上げた。僕は竜安寺の池ノ下町に住んでいたのだが、河野裕子は昔、竜安寺の塔ノ下町の長屋に住んでいたのだ。僕はそのころの河野裕子の生活を、後年、エッセイや歌で知ることになった。

京福の音離れゆく坂の上 母と通いし赤提灯のあり

 これは僕の最近の歌である。竜安寺にあるお好み焼き屋さんを歌ったものだ。僕の歩いた坂道を河野裕子もきっと歩いたに違いないのだ。

C短歌について
 短歌について思うとき、歌においての二人の師である西藤光美氏と河野裕子氏への「すまなさ」といったものが常にある。両氏に対し恥ずかしくないことをやらなければと言う気持ちである。それが出来ないならばやめておこう、とも思うがそれどもどうしても短歌から離れられない。河野裕子が亡くなった今、単純に残念だ、などとは言いたくない。しかし、純粋に僕はそのことを河野裕子が亡くなったことは残念であった。もう一度会って話したかった。しかしついにそれは出来なかっった。だからこそ僕はなにも言うことは出来なかったし、短歌を再開することもなかった。また、半年ほど前に亡くなった自分の母と闘病期間も死期も不思議なほど近かった。もちろん僕の母は市井の一人にすぎず、河野裕子とは全然違う存在である。
 よくわからないけど、僕は今から母を含めて再び歌いたい。それが母と河野裕子と唯一元気である西藤光美氏へのささやかな恩返しと、なによりも僕自身の為になることをいまさらのように痛感しているのである。

Dコーラ
毎月の帰省の毎に墓参する 母の好みしコーラ備えつ

 母は一昨年の2月の日曜の夕方、自宅で意識を失い、そのまま約一年意識が戻らず、闘病の上、亡くなった。
 その前日から様子がおかしく、県立中央病院に診てもらったが、結局、入院することはなく自宅のベッドで横になっていたという。意識の亡くなる少し前、父に「コーラが飲みたい。」と母は語ったという。普段から腎臓が悪く人工透析を続けていた母は、いつもほんの一口ずつだけ色々な食べ物や飲み物を欲しがった。コーラは普段から好きだったので、普段から冷蔵庫にストックしてあることもあったが、たまたまそのときはなく、父に明日買ってくるから、と言われ納得していたような様子だったという。その後、母はコーラを飲むこと亡くなくなった。60年の人生の最後にたった一口のコーラも飲めなかったと思うと僕は悲しくて、何度も何度も意識のない母の枕元で、あるいは富山へ向かう車中で、泣きながら飲んだ。
 母の死後、僕は瓶のコーラを買ってきて、仏壇に一本供え、またそっと実家の納戸にも何本かしまった。
 瓶ではないが、僕の東京の家にも大抵は何本か冷えている。幸いなことはコーラはどこにでも売っているし、また、無くなることはないので僕はいつでも母親を思い出すことが出来るのだ。ただし、墓参するときは僕は100ミリリットルくらいのミニ缶を探して買っていく。58円ぐらいのそれは、たまにしか売っていないのが玉にきずだが、少量しか飲めない母のお気に入りだったのだ。

E兄嫁からの電話
ディズニーのTシャツ輝く夏空に二十歳の乳房膨らみてあり

 僕は母が意識をなくしてから、毎週のように帰っていた。ところが、2月のその金曜の夜は、仕事が忙しく、土曜日にも出社するつもりで帰らずにいた。僕はいつものように深夜12時過ぎにガールフレンドと電話をして眠りについた。
 兄嫁からの電話で起きたのはその数時間後である。正確には、僕は何かを感じ飛び起きた。その直後に兄嫁から電話がかかってきたのだ。僕は驚かなかった。兄嫁の言う母の亡くなった時間は僕の起きた時間とそう変わらなかったのだ。
 僕はガールフレンドに電話をした。明け方の四時近くというのに彼女は起きていた。母が亡くなったことを告げると、彼女は二回、「帰ってあげてください。」と言った。とても思いのある声だった。とても悲しい声だった。彼女が僕の悲しみを代弁してくれていた。僕は車で実家に帰った。さすがに疲れていて、途中、長野あたりで仮眠をとるしかなった。僕が死ぬわけにはいかないのだ。運転しながら僕は、永田和宏のエッセイを思い出していた。高安国世が亡くなったことをアメリカで知った永田が時差のからくりから、その時間に遡っていくというものだ。このときに意味もなく鍋を磨き続けた永田の気持ちが痛いほどわかった。
 最期に立ち会えないと言うのは、かくも悲しきことである。
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posted by akao at 14:27| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記