2012年01月17日

寒のころ



エレベーター 開/閉のボタン押す前にふと気づきおり二者択一に


唇の乾き気になる夕刻に君に声かけ退社してみる

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2012年01月02日

新春5首

本読みつふと静謐に目をやれば雪黙々と降りしきており


雪降りて道幅狭まる車道にてすれ違ふたび速度緩めつ


雪道のワイパー真面目に作動して信号待ちでも休むことなし


田んぼ道 二本の線路平行に 交はることの決して無きして


目覚めゐて君の着信確認し除雪した後かけ直さむと

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2011年11月29日

師走間近

出がけにてコート羽織るか迷いつつ手に持ちゐでて君待ちにけり


夜10時君に誘われ迷ひなく空車を探す明治通りに


終電の時間気にせず飲みゐればその後集まる人らのあはれ


石畳隙間からはや草の出て新居に引つ越し半年のすぎ

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2011年11月23日

小雪

原宿2011


「寒いね」とすれ違ふ人語らひて肩寄せ合ひつ青信号待つ


待ち合わせふるさとからのつぶやきに初雪とあり小雪となり


歩道橋上がりて空を見上げれば空澄みゆきて冬告げにけり


・原宿のショップ店員

男には用無し唯の支払ひのため我に微笑む


君泣きし二階の店は取り壊し明治通りの拡張の故


コンドーム・ショップの前で爆笑す少女ら楽し休日となり


人混みを避けつつ路地をすり抜けて外苑西は落ちつきており

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2011年11月13日

立冬

目覚めゐし君が毛布を奪ひ合ひ今年もあはれ立冬となり


雨なれば街へゐでゆくこともなく昔の歌集読み返しおり


田舎より持て来し新米 武蔵野の友人宅に届けてやりつ


エレベータ 薄手のセーター着た君に階数を告げ幸せとなり


チューリップ球根のため鉢探し先ずはひとつ植へてみるなり


方口に残りし酒を注ぎつつ昨夜の余韻確かめており


役所にて順番待ちたる我の横 香水がすぎ見上げておりぬ


木枯らしの一号ニュースとなりにけり納戸の毛布を引き出しており


名の知らぬ花咲きおりて墓参する母にコーラを備えておりつ


新製品ビールはどこか誇らしく整列をして秋告げにけり


日曜の歩行者天国長袖のシャツまくり上げ君と歩きつ


カード下電灯の消へ薄暗き昭和のごとき節電なりぬ

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2011年09月11日

河野裕子の思い出

@一枚のハガキ

叡電の停車場近き岩倉に河野裕子のサンダルのあり

 15年ほど昔の僕の歌だ。
 河野先生に初めて会ったのは1994年の京都の塔短歌会の歌会であった。僕は短歌をやりたい気持ちと他のことにも目がいって集中できない気持ちとが併存していて、とても中途半端だった。そんな僕であったが、河野先生はいつも突然電話してきて、僕に歌を作ることを要求してきた。
 僕の手元に一枚のハガキがある。僕は1995年の秋頃、河野裕子に柿とナツメを送った。いずれも実家で採れたものであった。河野裕子はよほど嬉しかったのか、すぐに電話をしてきて、かつ、ハガキを書いてきた。そこには「ナツメも嬉しいけど、歌はその何倍も嬉しい。」とあった。僕はそのハガキを後世大事にしてきている。オーバーな表現ではない。僕はこのとき以来、なんと10回もの引っ越しを繰り返しているが、手紙類であるのは、このハガキと母親から大学入学後にもらったたった一度だけのハガキのみである。
 僭越ながら、僕にとって河野は母親と同義と言っていいのだ。それは娘さんの紅ちゃんと同い年、という年齢的なものだけではない。小学校時代の恩師である西藤光美氏から真中氏を通じて僕は大学一年生の春、河野裕子に会った。僕は中途半端な気持ちで歌に取り組んでいたため、次第に河野裕子に会うことがしんどくなってきた。それでも最後に会ったのは京都の洛北の新聞社の主催する歌会のイベントだったと思う。河野裕子は参加者として、僕は見学者として出席した。河野裕子は目敏く僕を見つけてくれて何か言葉を交わした。僕がわざわざそのイベントに来ていることに彼女は相当驚いていた。

 その後、直接河野裕子や永田和宏に会うことは無かったが、紅ちゃんの親友の辻潤子と僕が友人であったこと(今もそうだ)や、年に数回は京都に行くが、そのたびに寺町二条の三月書房で歌集や塔のバックナンバーを買うのが僕のなによりの楽しみであったのだ。そしてそのたびに僕は河野裕子のことを思うのであった。いや、河野裕子を思うからこそ、京都に通ったのだ。

A岩倉実相院
 1998年に僕は上京してしまったが、それ以降僕は、ほぼ上洛する度に岩倉実相院に通っている。春夏秋冬、紅葉の時期を除けばほぼ誰もいない。僕は京都にいたときは竜安寺の目の前に住んでいたので、石庭を見るならそちらに行けば良いのだが、どうも昔住んでいたところと言うのは生々しくて仕方ないのか、自然と岩倉に足が向かうのであった。左京区への憧れかもしれないし、高速バスで上洛した後、くらま温泉に行くのが僕の日課なので、その寄り道であったことも影響しているのかもしれない。しかし、なによりも実相院の庭は実は石庭だけではなく、普通の(というか緑の)庭があることがとても良かった。石庭と緑の庭を交互に見るのである。飽きない。たとえは良くないかもしれないが、サウナと水風呂に交互にはいるようなものである。河野裕子が岩倉の上蔵町に住んでいることはもちろんよく知っていた。だから僕はいつも偶然会いたいような気恥ずかしいような気持ちを抱えつつ、岩倉に足を運ぶのが常だった。それが冒頭の歌である。
 実相院は僕にとって重要な場所である。
 仕事に疲れたとき、どうしようもない悩みがあるとき、あるいは何でもないとき、僕は実相院に行く。そこでなにをすることもなく庭を眺めていると次第に気持ちが解れてゆくような気がするのである。よしもう大丈夫、明日から頑張ろうとなるのだ。それは決して訪問することのない河野裕子がそこに住んでいるということもやはり関係していると言わざるを得ないのである。

B竜安寺
 いつのときだったか僕が京都に住んでいたときに、河野裕子は「まあ懐かしい」と声を上げた。僕は竜安寺の池ノ下町に住んでいたのだが、河野裕子は昔、竜安寺の塔ノ下町の長屋に住んでいたのだ。僕はそのころの河野裕子の生活を、後年、エッセイや歌で知ることになった。

京福の音離れゆく坂の上 母と通いし赤提灯のあり

 これは僕の最近の歌である。竜安寺にあるお好み焼き屋さんを歌ったものだ。僕の歩いた坂道を河野裕子もきっと歩いたに違いないのだ。

C短歌について
 短歌について思うとき、歌においての二人の師である西藤光美氏と河野裕子氏への「すまなさ」といったものが常にある。両氏に対し恥ずかしくないことをやらなければと言う気持ちである。それが出来ないならばやめておこう、とも思うがそれどもどうしても短歌から離れられない。河野裕子が亡くなった今、単純に残念だ、などとは言いたくない。しかし、純粋に僕はそのことを河野裕子が亡くなったことは残念であった。もう一度会って話したかった。しかしついにそれは出来なかっった。だからこそ僕はなにも言うことは出来なかったし、短歌を再開することもなかった。また、半年ほど前に亡くなった自分の母と闘病期間も死期も不思議なほど近かった。もちろん僕の母は市井の一人にすぎず、河野裕子とは全然違う存在である。
 よくわからないけど、僕は今から母を含めて再び歌いたい。それが母と河野裕子と唯一元気である西藤光美氏へのささやかな恩返しと、なによりも僕自身の為になることをいまさらのように痛感しているのである。

Dコーラ
毎月の帰省の毎に墓参する 母の好みしコーラ備えつ

 母は一昨年の2月の日曜の夕方、自宅で意識を失い、そのまま約一年意識が戻らず、闘病の上、亡くなった。
 その前日から様子がおかしく、県立中央病院に診てもらったが、結局、入院することはなく自宅のベッドで横になっていたという。意識の亡くなる少し前、父に「コーラが飲みたい。」と母は語ったという。普段から腎臓が悪く人工透析を続けていた母は、いつもほんの一口ずつだけ色々な食べ物や飲み物を欲しがった。コーラは普段から好きだったので、普段から冷蔵庫にストックしてあることもあったが、たまたまそのときはなく、父に明日買ってくるから、と言われ納得していたような様子だったという。その後、母はコーラを飲むこと亡くなくなった。60年の人生の最後にたった一口のコーラも飲めなかったと思うと僕は悲しくて、何度も何度も意識のない母の枕元で、あるいは富山へ向かう車中で、泣きながら飲んだ。
 母の死後、僕は瓶のコーラを買ってきて、仏壇に一本供え、またそっと実家の納戸にも何本かしまった。
 瓶ではないが、僕の東京の家にも大抵は何本か冷えている。幸いなことはコーラはどこにでも売っているし、また、無くなることはないので僕はいつでも母親を思い出すことが出来るのだ。ただし、墓参するときは僕は100ミリリットルくらいのミニ缶を探して買っていく。58円ぐらいのそれは、たまにしか売っていないのが玉にきずだが、少量しか飲めない母のお気に入りだったのだ。

E兄嫁からの電話
ディズニーのTシャツ輝く夏空に二十歳の乳房膨らみてあり

 僕は母が意識をなくしてから、毎週のように帰っていた。ところが、2月のその金曜の夜は、仕事が忙しく、土曜日にも出社するつもりで帰らずにいた。僕はいつものように深夜12時過ぎにガールフレンドと電話をして眠りについた。
 兄嫁からの電話で起きたのはその数時間後である。正確には、僕は何かを感じ飛び起きた。その直後に兄嫁から電話がかかってきたのだ。僕は驚かなかった。兄嫁の言う母の亡くなった時間は僕の起きた時間とそう変わらなかったのだ。
 僕はガールフレンドに電話をした。明け方の四時近くというのに彼女は起きていた。母が亡くなったことを告げると、彼女は二回、「帰ってあげてください。」と言った。とても思いのある声だった。とても悲しい声だった。彼女が僕の悲しみを代弁してくれていた。僕は車で実家に帰った。さすがに疲れていて、途中、長野あたりで仮眠をとるしかなった。僕が死ぬわけにはいかないのだ。運転しながら僕は、永田和宏のエッセイを思い出していた。高安国世が亡くなったことをアメリカで知った永田が時差のからくりから、その時間に遡っていくというものだ。このときに意味もなく鍋を磨き続けた永田の気持ちが痛いほどわかった。
 最期に立ち会えないと言うのは、かくも悲しきことである。
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2010年09月02日

399円のシンデレラB


第四章 プロローグ

 長谷寺周辺は大混雑であった。鎌倉大仏あたりから、通り沿いには駐車場が点在するが、どこも満車である。
 歩道には人があふれ、にぎやかだ。「紫陽花ソフト」という紫色のソフトクリームが売っていて、僕らはそれを食べようと固く誓いあいながらも、なかなか駐車することができなかった。
 車は京都の嵐山のような土産物屋が並ぶ街道沿いをすすみ。江ノ電の踏切を越え、海岸線にぶつかって左折し、そのうちに由比ヶ浜海岸まで来てしまった。
 結局、海沿いの地下公営駐車場に車を止め、そこから長谷寺まで歩くことにしたのである。結構な距離であるが仕方ない。
 車を所定の位置に止め、「ずいぶんお腹も空いたね」などといいながら、僕らは車を降りようとした。


 ところが、ここで事件が発覚した。
 後部座席でぐっすりと眠っていたマヤが車を降りようとして、彼女の赤いヒールの片方がないことが判明したのだ。
 車の中、どこを探してもない。
 おかしい。
 前に下車したのはどこか、という話になり、そこが保土ヶ谷PAであることに僕らは気づいた。

 時刻はすでに一時半を指していた。保土ヶ谷にいたのはもう3時間くらい前だ。まさか、と思いつつも、ユウコが偶然持っていた保土ヶ谷PAのレシートに印刷されていた電話番号に電話した。
 しばらくして、赤いヒールがPAで発見されたという。


 僕らは大爆笑した。
 ここで笑いのスイッチが入ってしまった。
 もはや、僕らを誰も止めることはできなくなった。
 見るものすべてが笑いとなり、聞くもの全てが笑いにつながった。そんな風に笑ったのは実に久しぶりだった。


 僕らは、とりあえず、靴は帰りに保土ヶ谷PAに取りに行くことにし、予定通り観光することにした。
 保土ヶ谷PAは下り方面にしかないので、マヤは靴を取りに行くことを遠慮したが、僕は取りに行くことを強固に主張した。「取りに行かなければ、この話がネタとして完成しない。」というのが、その理由であった。

 一安心したところで、マヤの靴を買うことにした。素足のシンデレラ、というのは素敵な表現だったが、さすがに裸足では車から一歩もでられない。シンデレラにふさわしい靴を買う必要があった。
 
 僕は、少し考えて、車を駐車場から出してコンビニに向かった。
 夏の湘南である。シンデレラにはビーチサンダルこそふさわしいと僕は思ったのだ。
 この辺のコンビニはビーチボールとか浮き輪なんかも売っている。そうであれば、ビーチサンダルなんかもあるに違いないと思ったのだ。少しばかり海沿いの国道を進むと、ローソンがあった。
 僕は車を止め、マヤとユウコを車を残したまま、コンビニに走った。ビーチ近くのコンビニなので、氷や浮き輪などが大量に積み上げられ、大音量でサザンオールスターズがかかっていた。
 うまい具合にシンプルなデザインのビーチサンダルがあった。色は青と赤。サイズは・・・。
 僕はマヤの足を想像したが、全く無理だった。昨夜出会ったばかりだ。足のサイズなんて知るはずもない。だいたい僕は彼女の姓さえ知らないのだ。やれやれ。
 まあ、彼女は比較的身長が高かったので、Lで大丈夫だろうと思った。値段は思ったよりずっと安く、399円しかしなかった。
 
 しかしこのサンダルはこの日のマヤの格好に、ぴったりと合っていた。
 僕は、いたく満足した。
 マヤは、ちょうどビーチサンダルが欲しいと思っていたので、とても満足した。
 ユウコは自らの友人同士が初対面にも関わらず、打ち解けたことで、すっかり満足していた。
 そんなわけで、僕ら三人はとても幸せだった。


 僕らは、その後も妙なテンションになり、終始笑いが止まらなかった。出会いやらハプニングやらリカバリーやら、旅を楽しくする要素がたっぷりと詰まっていた。
お昼はどこにしようかと、海沿いの国道を僕らは江の島に向かった。江の島への橋を渡る手前の信号で僕らは、奇妙な集団に出会った。それは柔道着を着た謎の10名程の集団であった。年齢は子供からお年寄りまで、様々なのだが、何が奇妙かと言えば、彼らが全員裸足であり、かつ一様に項垂れていたことであった。
彼らはゆっくりと歩道橋を渡り、信号待ちの僕らの前を過ぎて行った。まるで映画の「スティング」のような光景であった。僕はユウコが気をきかして彼らを仕込んでくれたのかと思ったくらいであった。
やがて信号が青に変わり、車はスタートした。僕らはほっとしたような残念なような複雑な気持ちで、昼ご飯を食べる場所を探したのであった。
 
 僕らは、その後江ノ電の停留所近くの食堂で遅めの昼食を食べた。そこは、僕が以前から目を付けていた店だった。シラス丼とか鰺のナメロウとか、にぎり寿司などをたっぷりと食べ、とても満足した気分で、僕らは長谷寺へと向かったのだ。

 
 この話にはオチがある。
 そんなかんなで、すっかり時間がかかってしまい、僕らが長谷寺に着いたとき、すでに山門は閉まっていて長谷寺の中には入れなかったのだ。
 僕らは、今日最高の大笑いをした。
 丸一日かけて、僕らは紫陽花を見るチャンスを失ったのだ。
 それでも門の前に植えられたわずかばかりの紫陽花は、いつまでも僕らを暖かく見守ってくれていて、十分に綺麗だった。
 
 そう、それは僕ら三人の友情のスタートのモニュメントだったのだ。
 僕らは来年こそ、長谷寺の紫陽花を見ようと固く誓いあった。
 
 マヤのサンダルが無くなった原因は不明だが、それはきっと、この三人の友情が少しでも長くー少なくとも来年の紫陽花までー永続させるための、ささやかな、おまじないだったのである。
 

 僕は、マヤとユウコを送り、一人帰路についた。
 僕は、自分の部屋に戻り、アンプの電源をいれ、ビリージョエルの曲をかけた。そしてイケアの一人用ソファーに身を沈め、タバコに火をつけた。
 僕は、いつもより、体が軽くなっている気がした。すっかり、あの澱もどこかに消えてしまっていたのであった。

 僕はゆっくりと起きあがり、携帯の着信履歴からガールフレンドを選んで、少し迷ってから、発信ボタンを押した。


iPadから送信
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399円のシンデレラA

399円のシンデレラ

 そういった意味で僕はささやかな触媒に過ぎなかった。
 オリジナリティはどこにもない。
 僕の仕事には、客に商品を売りつける喜びもなければ、同業他社と競争する興奮もなかった。
 僕は、弁護士や裁判所の法律専門家とそうでない人をつなぐ便宜的な橋にすぎない。
 あるいは、自らの仕事について、一種の翻訳家なのだ、という風にも思っていた。
 弁護士の話を、現場の人間に正確に伝え、現場の話をミスリードのないように弁護士に伝える。ただそれだけのことである。
 まさに村上春樹のいう「雪かき」仕事だった。
 
 しかし、ひとつひとつの案件を解決してゆくことには十分なやりがいがあったし、幸か不幸かそのようなスタンスで働く者は、周囲には皆無であったので、僕は結果的に、かなりの裁量のある仕事をしていた。
 もちろん、上司に報告をしたり判断を仰いだりすることはあっても、想定外に僕の提案が否決されることは、まずなかった。
 また、解決困難な案件は重要な案件であることも多く、僕の名前が表にでることは決してないにせよ、会社の意思決定に深く関わっていることに十分に満足していた。

 もちろん、法律的なことで、すべての案件を解決できるわけではない。また、いくら説得しても、すんなりと納得してくれる訳ではなかった。
 皆必死なのだ。
 お互い、ニコニコしているだけではいかない。僕はそんなときでも相手が話をやめるまで付き合うことにしていた。
 あるいは、こちらにとって既知の案件で、相手の話を遮って話し始めても構わないような案件であっても、可能な限り相手の話を聞いてから、説明を始めることを常に心がけていた。
 人はプライドの固まりである。僕にとっては「よくある」案件であっても、彼らにとっては一回きりかもしれない案件なのだ。僕はなるべくその気持ちを尊重したいと思っていた。

 ずいぶん長くなったけれど、僕はそのように日々の仕事をしている。


 しかし、そんな僕にも悩みはあった。それは、常に判断を求められることへのストレスと、いつか大きな過ちを犯すかもしれないという漠然とした不安であった。そして何よりも、結局は、「紛争」という一般的には好ましくない事象を飯の種にしているという一種の罪悪感であった。それは、紛争解決を仕事としている者であれば誰もが抱える一種の原罪のようなものかもしれない。

 正確に言えば、それは悩みですらなくて、結局はこなしていくことで非凡が平凡へと変換されてゆく日常の中で(明日は常に非凡で、昨日は常に平凡である)徐々に蓄積されていく「澱」のようなものが、やはり、僕にもあるのだった。

 僕は、その澱が少しずつ蓄積されていくことに対して、どこかで救いを求めていたのかもしれない。
 その澱は、新宿から30分以内の1LDKのマンションに住み、国産のスポーツカーを所有し3000キロ事にきちんとエンジンオイルを交換し、40型テレビと400枚以上のレコードを持ち、毎晩ガールフレンドと電話をしている僕の日常をもささやかに浸食していたのだ。
 それは、ウディーアレンの映画を好み(男はつらいよ、も好きではあるが)、柄谷行人とデリダをほとんどすべて読破していても避けることは出来ないのであった。
 それはポロ・ラルフローレンのポロシャツではなくフレッド・ペリーのそれを選択し、二週間に一度アカスリに通い、毎週市民プールに通っても、まだ避けきれないものなのであった。


(場所は原宿のジャズバーに戻る)
 
 ユウコは、この金曜日の夜、原宿のママに頼まれてトラ(代役)になった。僕とマヤはそれぞれ、ユウコから「お客さんが来ないかも。だから見に来て。」とメールで頼まれたのだ。僕が店に着いたとき、ユウコはまだ一人でカウンターの中にいたのであった。
 そのうち、マヤが現れた。連れの男性と一緒であった。
 ユウコが僕にマヤを紹介してくれた。マヤはすらりと背が高く、とても賢そうな娘に見えた。年齢は22から27までのいずれであってもおかしくはなかった。基本的に若いというのはよく分かるのだけれど、どことなく落ち着いた部分もあり、ある種の貫禄さえあった。僕らは、共通の友人同士が100%やるように礼儀正しく挨拶をし、簡単にユウコとの関係を尋ねた。NGワードを出すわけにはいかないのだ。
 僕らは一つ席を空けて隣に座った。マヤは決して余計なことを言わなかったが、無口なわけではなく、不自然に陽気なわけでは無かったが、表現は的確で、話していて心地よかった。また、明るくノリがよいけれど、決して押しつけがましいところはなく、僕はマヤを素直に信頼することができた。
 要するに、マヤはとてもナチュラルな女の子であったのだ。マヤには自分の魅力にさえ気づいていないんじゃないかと思うほど飾らない美しさがあった。自分がどう思われているかどうかには全く興味がない(ように僕には見える)。
 僕はマヤに限らず、そんな女の子を見ていると、その辺に散らばっている賛辞を全てひっかき集めて、大きなお皿の上に盛りつけて、彼女の前に差し出したいという衝動に駆られることがあったが、そんな風に感じたのは実に久しぶりであった。
 マヤはそんな女の子であった。
 僕らは僕とユウコがたまたま持ってきていたiPadでエアホッケーをしたり手品の種あかしをしたりして時間を過ごした。

 時間は終電近くになってきていた。
 ユウコのトラはなかなか見事であり、店もかなり混んできて、本当のママがでてきたこともあり、僕らは遅めの夕食を食べに、原宿から新宿に、店を換えたのであった。

 そもそも僕らー僕とユウコだーは、次の土曜日に長谷寺の紫陽花を見に行くことにしていた。僕の新車で、である。
 ユウコはかなり忙しい女で、僕の新車が納車されたにもかかわらず、なかなかドライブに行くタイミングが合わなかった。僕はずっと助手席に女の子を乗せるのを我慢していた。
 そのかわり、カーナビの操作を覚えたり、ハンドリングの癖を確かめたり、ウエットティッシュを補充したりして、いくつかの週末を、やり過ごしていたのである。


 移動した新宿のイタリアンカフェで、すっかり僕らは盛り上がった。
 終電の時間も過ぎたというのに、東口のイタリアンカフェは混雑していた。若い女の香水のラストノートと、甘い汗の匂いと、グラスのぶつかり合う音と笑い声で活気に満ちあふれていた。そんな光景を見ているとまだまだ日本経済は盤石な気さえした。
 僕らはかなり飲んでいて、そんなこともあってか、誰かが言い出して僕らは翌日、皆でドライブに行くことになったのだ。


 翌日、僕らは吉祥寺で待ち合わせた。
僕は朝から熱いシャワーを浴び、酔いを醒まして、みんなのためにおいしいコーヒーを淹れて水筒に詰め、吉祥寺に向かった。
 僕は運転しながら、ユウコはともかくマヤは来なくても仕方がないと思っていた。マヤとはもう少し話したいとは思ったが、酔いが醒めて気が変わることはよくあることだ。がっかりしてはいけない。僕はそう思っていた。
 しかし、約束の吉祥寺パルコ前に車を止めたところ、予想に反して、ユウコより先にマヤが現れたので、僕はすっかり動揺してしまった。マヤはにっこりとほほえんで軽く会釈してくる。僕は素面に戻っていたので(当然だ)、一瞬愛想よく、振る舞うことが出来なかった。
 明るい日の中で見るマヤは昨夜よりずっと健康的で可愛く見えた。まったく失礼な話である。
 しかし、そのすぐ後ろにユウコの顔が見えたので僕は安心した。僕はこのときほどユウコに感謝したことはなかった。
 マヤにはこの後も終日、僕はドキドキさせられた。
 どこか彼女は無防備なのだ。それは彼女の若さかもしれないし、僕が年をとったからかもしれなかった。

 それは悪い気分ではなかった。いつもと同じ店、いつもと同じ酒、それも悪くない。
 しかし、今日のようにほぼ初対面の人といきなり遊びに行ったりすることは、さすがに30歳を過ぎたあたりから少なくなってきていた。そんな非日常の扉の向こうだけに存在する高揚感は悪い気分はしなかった。

 マヤのおかげで僕は、カーナビをセットしたにも関わらず、いきなり道を間違えた。
 吉祥寺から鎌倉である。少なくとも100回は運転している。環八を南下すればいいものを、僕は疑いもなく、北上していた。動揺にもほどがある。

 しかし、僕が動揺していたのには、実は、きちんと理由があったのだ。それはたぶん今日しにかできないであろう、日常の澱を解き放つための、一種の「おまじない」のようなものをかけるチャンスが不意に訪れようとしていたからであった。


 鎌倉への道はかなり渋滞していたが、気分は悪くなかった。
 環八と第三京浜は相変わらず渋滞していたが、天候は梅雨明け前の薄日の射す曇りだった。これならまず雨は降らないだろう。そんな天気だった。沿道の木々は文句なく生命力がみなぎり、ビワの実なんかも、よく見ると発見することができた。

 僕らは一時間ばかり走り、やっと渋滞を抜け、保土ヶ谷PAで休むことにした。
 時刻は午前10時。悪くない。一日はこれからである。
 僕らは、長いベンチに三人で座り、僕とマヤが肉まんを食べ、ユウコがアイスクリームを食べた。確かに冷たいモノが食べたくなるような夏の朝であった。
 僕は左右に女の子がいることで。すっかり楽しい気分になった。こういった言い方は申し訳ないけれど、ガールフレンドと二人きりでいるよりもある意味、贅沢な気分だった。

 保土ヶ谷PAを出発する際、乗り物に酔いやすいというマヤのために、僕は車の後部座席をフラットにして、テンピュールの枕とバーバーリーの小さな毛布を渡した。マヤは赤いヒールを脱いでフラットなシートの上に上がった。僕はそのヒールを受け取り、足下に置いた(つもりであった)。その赤いヒールだけが昨夜の余韻を残していた。            
 疲れているのか、リラックスしているのか、あるいはフロントシートの僕とユウコに気を遣っているのか、マヤは車がスタートしてまもなく、スヤスヤと眠り始めた。
 僕は車で眠る女の子は嫌いではない。むしろ寝ていてくれた方が、運転技術その他諸々について安心されている気がして、決して悪い気がしないものである。
 僕はマヤに感謝した。
 このような小道具をー枕とか毛布とかーがなかなか陽の目を見ることはないのだ。そいういったものを利用してくれただけで、僕は素直に感謝していたのである。

 そのうち、車はやっと鎌倉近辺まできた。僕らは福山雅治の歌う「プカプカ」を合唱しながら、長谷寺を目指したのであった。
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399円のシンデレラ@

399円のシンデレラ

第一章 プロローグ(8月8日)

マヤは眠っていた。
無印良品のパイン材のシングルベッドのテンピュールのマットレスの上で、である。
 
 マヤは基本的に、ぐっすりと眠っていた。静かな寝息をたてながら、30分おきに彼女は体の向きを変えた。夢を見ているのか、時々、訳の分からないことをつぶやいたり、突然右手を高くあげたりもした。

 僕には、人生とは何かは全くわからないけれども、人生の幸ならわかる。それはマヤの寝顔である。そう断言できるほどの幸せで平和な光景だった。
 こんな素敵な睡眠の前では、世界中の兵士が戦いをやめ永遠の平和を誓うことは間違いないといった睡眠であった。もしそれを疑うのであれば、国会で付帯決議をしてもらった方がよい。オバマ大統領に宣言してもらってもよい。それくらいのものであった。

 僕は明け方の5時頃からソファーに座ったまま、僕のマンション近くの世田谷通りの車の流れが勢いを増してくるのを感じるまで、マヤのそんな姿を見ていた。八月の朝は、この時間から夕べの火照りを残したまま、それが冷めないうちに、すでに今日の熱気に繋がっているようなリレーのような朝だった。
 もう立秋なのにな、と僕は思った。しかし、秋はまだまだ僕らの手の届かないところにあった。

 マヤの寝顔を見ていると、ユウコがマヤのことを好きな理由がよく分かる気がした。


 もちろん、僕らは二人きりではなかった。
ベッドの下のラグではユウコが横になっていた。僕らは、前日から、ホームパーティーをしていて、そのまま眠ってしまったのであった。


第二章 ユウコとの出会い(2月)

 我々ー僕とユウコとマヤだーは友人だった。正確にいえば、僕とユウコが友人で、ユウコの友人がマヤだった。
 僕とユウコが知り合ったのは、今年のバレンタインデーの少し前くらいの、原宿のジャズバーのパーティーだった。

 僕は、そのパーティーの主役である著名なイラストレーターにちょっとした親切を働いたことで、まだ一度しか会っていないのに、そのパーティーに呼ばれた。
 僕がしてあげたことは、大したことではない。
 マッキントッシュの設定であるとかiPodへの曲のコピーであるのか、その類の平凡な親切である。
 30代男子の過半数が持ち合わせているであろうと内閣府が公表したに違いないと思われる平凡な能力に過ぎない。そんなことは誰だってできる。たまたまそのイラストレイターの周りと、彼女に僕を紹介した原宿のバーのママの周りにそのような人物がいなかっただけの話だ。


 パーティー会場は、原宿のその店ではなく、新宿の「J」だった。
 やれやれ、と僕は思った。ここでよく昔の女が唄を歌っていた。タモリの関係する店である。僕は、新宿三丁目で地下鉄を降り、厚生年金会館の方に靖国通りを歩いた。僕は店の関係者に気づかれないことだけを念じて、原宿のママに案内された席におとなしく座っていたのであった。

 そこで僕はユウコに出会った。ユウコは目鼻立ちのはっきりとした顔だった。まあ美人といっておかしくはない。
 また、ユウコは、やたらと愛想のいい女であった。年は僕と同じくらい(正確には一つ、上だ)だが、とても親切であった。僕にさえ、とても親切であった。僕は、彼女に壷でも売りつけられるのではないかと疑ったことがあるくらいだ。ずいぶんと失礼な話だけれども、そのくらい彼女は僕にとてもよくしてくれていた。
 ユウコは僕だけでなく周りの友人をとても大切にしているようであった。いろいろなことに好奇心も旺盛で、いつも周りに気を遣っていた。そのせいで、僕から見ればということではあるが、無用なトラブルを抱え込むこともあった。また、ある種の部分ではとても頑固で譲らないところもあった。そんなところを見る度に僕はハラハラしたが、それでも彼女の努力は大したものであると思っていた。

 そのユウコの友人がマヤであった。

 マヤに初めて出会ったのはいつだったか?僕は記憶を掘り出してみた。しかし、それは考えるまでもなかった。、それはついこの間の、6月の金曜日だったのだ。

第三章 原宿から新宿、そして鎌倉へ(6月)

 「J」でのパーティーの後、僕はユウコと時々会って、酒を飲んだりドライブに行ったりしていた。
 世の中の人間は、実はシンプルに二種類に分けられる。村上春樹が好きな否かである。ユウコは、疑いなく前者であった。
 そんなわけで僕らは結構仲良くなった。

 ある6月の金曜の夜、何とか仕事に区切りをつけ、会社のある外苑前から原宿にタクシーで向かったのだった。

 金曜の夕方は、僕はいつも忙しかった。しかも昼から夕方に向かって加速度的に忙しくなるのだ。僕はある会社の、法務部で働いていた。

 受話器を置く度に、僕のデスクの電話が鳴る。社内及びグループ企業からの、相談事の電話が大半だ。
 相談内容のうち、新規案件と継続案件の比率は半々。仕入れやら販売やらトラブルやら、法律に関わること、あるいは現場では経験のない事柄、ありとあらゆる相談の電話が僕の元にはかかってきた。もちろん僕は、いわゆるテレフォン相談窓口ではないので、打ち合わせに出かけたり、現場に出かけたりすることも多かったが、電話対応をしていればよいというものではなかったが、実際問題として、電話の数はとても多かった。
 電話をしながら、僕は人の気配にちらりと後ろを見る。誰かが書類を抱えて、僕のデスクの数メートル後ろに立っている。僕と目が合うと軽く会釈をするが、目は決して笑っていない。僕への電話が余りに繋がらないために、業を煮やして他のフロアや近所の関連会社のビルからやってきた相談者だった。
 やれやれ。
 このように、実力行使されると相手をしないわけにはいかない。僕は身振り手振りで後から連絡する意思を伝えて、再び電話に集中する。
 また、あまりに電話が繋がらないために、僕の周りのデスクに電話をかけてくる奴もいる。それは同僚の受け答えでわかる。「あいにく・・・は電話中です。折り返しさせます。」云々。
 同僚も決して暇ではないのだ。申し訳ない。親切な同僚の女の子が小さな丁寧な字で。折り返しの名前と番号を記したポストイットを僕のデスクに貼っていく。
 相談事の多くは、もちろん一回の電話くらいでは終わらない。足かけ三年くらい、継続的に聞いている件もあれば、一度終了したと思われる案件が蒸し返されることも多かった。
 それに加えて、メールで相談事項を資料と一緒に送ってくる人もいる。こちらは北は北海道から南は沖縄までの支店からの相談事が中心だ。地方支店を蔑ろにするわけにはもちろんいかない。
 僕はそれらにざっと目を通し、不本意ながら処理の順番をつけていくのであった。

 本当に、やれやれやれやれである。

 僕に電話や相談が多いのは大した理由ではない。可能な限り、丁寧に答える。ただそれだけでだった。案件によって選り好みをしない。本当にそれだけのことであった。That’s all。
 正確に言えば、僕にだって好みはあるし、得意不得意もある。しかし、少なくとも仕事上、それを表明してはならないだけである。僕はプライベートでは決して親切で平等な人間ではないのだけれども、不思議と仕事では別の自分になることが出来た。

 僕のしている仕事は、法律の仕事といっても、大したことではない。僕は弁護士の資格も持っていないし、年齢的にも大した実務経験もなかった。
 学歴も大したことはない。元々は、研究者になるつもりで大学に残るつもりであったが、結局、諸処の事情で、大学院を二つもいったあげくに中退しているのだ。ろくなものではない。
 僕が考えていることは愚直に目の前の仕事を片づけるだけだった。自分の所属する会社とグループ会社において、現場の人が直面している案件に対し、ささやかな法的なアドバイスを与えることだけが、僕の任務だった。僕は村上春樹の言うとおりなるべく便宜的に振る舞った。よけいなプライドを捨て、便宜的に振る舞うことで、確かに世の中はうまく回るのであった。

 僕に電話をしてくる人の第一声は、内容の点で、奇妙なくらいによく似ていた。皆、異口同音に「弁護士に質問しても構わないか自信がないので・・・」とか「弁護士に相談していたのでは間に合わなくて・・・」と前置きをしてくるのだ。
 人によっては、そういった言い方は、いかにも間に合わせ的で怒る人もいるかもしれないけれど、僕は決してそう思わなかった。
 僕らはー社員同士だーはチームで仕事をしているのだ。良くも悪くも会社というのは全員野球なのだ。すべて一人で出来るスーパースターがいない代わりに、すべては他人との協調で成り立っているのだ。
 本当にそうなのだ。
 それが嫌なら、自分で小さな会社でも興すしかない。東京やらニューヨークを捨て、発展途上国に行くしかない。
 確かに、会社の規模が大きいために自らの仕事以外の部分については、さっぱり分からないといった部分もあった。しかし、僕の仕事に関しては、会社の規模が大きい分、年に数回ではあるが、どの文献にも、どの判例にもでていないような新しい事件に(正確には新しい学問的萌芽を含む事件に)出会うことが出来た。
 僕は、そのことに、密かに満足していた。
 大企業で働くのも悪くない。東証一部上場企業というのは伊達看板ではないのだ。会社の規模が大きい分、トラブルもまた多様であった。
 そのように思える僕は、幸せかもしれなかった。弁護士と議論をしたり、法律情報の広報紙を編集する仕事の中で、僕は以前の夢ー研究者になることーの一端をささやかに実現できているかもしれないと密かに自負していた。
 負け惜しみかもしれないけれど、人生の夢は様々な形で実現できる。東京から名古屋に行くルートは東名高速だけではないのだ。中央道だって一号線だって、甲州街道だって名古屋まで行けなくはないのだった。
 しかし、そのようなことは一度も口に出したことはなかった。

 とにかく、僕は、会社の中で使いやすいゴミ箱のような立場にいた。皆、よく分からなくなると僕のところに案件を持ってくる。それらの事件の多くは、先例がなく、弁護士に聞いたところで、あるいは裁判所に聞いたところで、すんなりと答えのでてくる代物ではなかった。それ故僕がそれを放り出すことは出来なかった。僕が放り出したらどうなるのだ。
 僕はいつも自らにそう言い聞かせていた。僕はいつもぎりぎりで仕事をこなしていた。仕事がうまくゆく度に単に自分はラッキーだっただけだと自らに言い聞かせた。
 ボールを持ったらゴールまで走るしかないのだ。ゴールがどこにあるのか考えてはもちろんいけないし、ゴールがなくても走るのだ。大切なのは走り続けることなのだ。スピードは遅くなっても構わない。歩いてもよい。しかし、無意味に立ち止まってはいけない。

 僕はそれらを自らの経験から学んだのかもしれない。たとえば、僕の抱えている病は、完治不可能なものであり、時々自分を押しつぶしそうになった。病気自体は僕のせいではない。しかし、そこから逃げることは出来ないし、それは僕の過失ではないにせよ、僕自身の責任なのだ。僕は自分自身から逃げ出すわけには、何があってもいかないのだ。


 とはいえ、そのような信念は別として、現実問題として、仕事は常にハードであった。日々の実践として、常に現場の声に耳を傾け、相手の分かるように説明をし、可能な限りの処方箋を出す。それを誰が相手であっても平等に行うには、相手に合わせるという意味で、非・平等な努力が必要であった。

 僕に相談してくる人の多くは、自らの抱えている案件について、法律の知識はなくても、決して大きく誤ることはない「一応の」結論を持っていることが殆どであった。感覚的には彼らの多くは90%程度は正しかった。
 しかし、彼らの多くはその結論=感覚を他者に説明する術を持ち合わせていなかった。そこで、僕はただ、彼らの感覚に言葉を与える。法律という、デコレーションを付して、である。
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2010年06月03日

アイパッド

本文(改行可)
僕らはどこに行こうとしているのであろう。
僕らの人生。
僕らの逡巡。
僕らの日常。
僕らの夢。

僕ら、なんてすてきな響きだろう。

ipadを購入した。
正確に言えば予約した。さんざん迷ったあげく、3Gモデルの64GBを購入した。伊集院のラジオである。すごくよくわかる。欲しいという気持ちと並んでまで買いたくないという気持ち、それでも予約が終了したときは、「しまった」と軽く焦る気持ち。そんな気持ちが交錯するのだ。そして「べつにいらないんじゃないの」という気持ちに基づくネガティブキャンペーン、そういったものの繰り返しだった。
ところが月曜日、新宿のヨドバシカメラに行った僕は驚いてしまった。何と予約をすれば数日以内で買えるというのだ。僕は迷わず予約の列に並んだ。こうなれば勢いである。電車の中で読みにくいとかのネガティブキャンペーンは影を潜め「それが僕に何かをもたらしす」とか「ここ数年パソコンに投資していない」とかの理屈が急上昇してきたのだ。

そして、予約がすむと今度は付属品が欲しくなってきた。タイミングの悪いことに、ヨドバシの店員が「純正のケースはすごくいいですよ」とか教えてくれる。しかし現品はない。あきらめて家に帰ったが、今度はアップルストアで予約することを思い立った。これだとすぐに買える。これしかない。僕は苦労してIDを思い出して、すぐに注文した。みると2週間くらいかかる。残念だが、ここは確実性を選択した。しかも送料も500円かかる。それも仕方ないとあきらめた。
ところが今度は、Mac本体なしでも充電できるアダプタも必要だということに気づいた。これも一緒に注文すれば6000円くらいになるので、送料が無料となる。しくじった。僕は後悔したが、アダプタは店頭で買えばよい。そう思って溜飲を下げたのであった。

そして二日後、今日の夕方ヨドバシから入荷の電話があった。何と受け取りは明日以降にしてくれという。仕方ない。明日の七時だ。明日には講演も終わり晴れ晴れとした気持ちで製品を受け取れる。そう思い直した。しかしふと聞いてみた「純正ケース、ある?」
「はい、ありますよー」店員は即答する。僕は耳を疑ったが、まあ、悪い話ではない。それでは、と家に帰り、真っ先にキャンセルしたのであった。

ところが、である。ヨドバシに電話して聞いてみると結局、なかった。しかし、それでもなお僕は、プラスに考えた。
あらためて、ケースと純正ケーブルを注文しよう。そうすれば送料が無料になるし、確実に手に入る。そもそも僕の持っているTUMIのバックはちょうどipadが収まる大きさなのだ。しかもUSBケーブルの先につけて充電するアダプタも昔買ったものがまだ残っている。それも使えると言うことを店員は教えてくれた。よし、これしかない。ipad購入まであと20時間を切った。とにもかくにも、大変なのである。
それにしても、久しぶりのMacである。ジョブスは「ipadがあなたに近づいてくる」と行っているそうだ。
小島のキラキラも続投が決まった。
明日、晴れるかな?
posted by akao at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記