2010年09月02日

399円のシンデレラ@

399円のシンデレラ

第一章 プロローグ(8月8日)

マヤは眠っていた。
無印良品のパイン材のシングルベッドのテンピュールのマットレスの上で、である。
 
 マヤは基本的に、ぐっすりと眠っていた。静かな寝息をたてながら、30分おきに彼女は体の向きを変えた。夢を見ているのか、時々、訳の分からないことをつぶやいたり、突然右手を高くあげたりもした。

 僕には、人生とは何かは全くわからないけれども、人生の幸ならわかる。それはマヤの寝顔である。そう断言できるほどの幸せで平和な光景だった。
 こんな素敵な睡眠の前では、世界中の兵士が戦いをやめ永遠の平和を誓うことは間違いないといった睡眠であった。もしそれを疑うのであれば、国会で付帯決議をしてもらった方がよい。オバマ大統領に宣言してもらってもよい。それくらいのものであった。

 僕は明け方の5時頃からソファーに座ったまま、僕のマンション近くの世田谷通りの車の流れが勢いを増してくるのを感じるまで、マヤのそんな姿を見ていた。八月の朝は、この時間から夕べの火照りを残したまま、それが冷めないうちに、すでに今日の熱気に繋がっているようなリレーのような朝だった。
 もう立秋なのにな、と僕は思った。しかし、秋はまだまだ僕らの手の届かないところにあった。

 マヤの寝顔を見ていると、ユウコがマヤのことを好きな理由がよく分かる気がした。


 もちろん、僕らは二人きりではなかった。
ベッドの下のラグではユウコが横になっていた。僕らは、前日から、ホームパーティーをしていて、そのまま眠ってしまったのであった。


第二章 ユウコとの出会い(2月)

 我々ー僕とユウコとマヤだーは友人だった。正確にいえば、僕とユウコが友人で、ユウコの友人がマヤだった。
 僕とユウコが知り合ったのは、今年のバレンタインデーの少し前くらいの、原宿のジャズバーのパーティーだった。

 僕は、そのパーティーの主役である著名なイラストレーターにちょっとした親切を働いたことで、まだ一度しか会っていないのに、そのパーティーに呼ばれた。
 僕がしてあげたことは、大したことではない。
 マッキントッシュの設定であるとかiPodへの曲のコピーであるのか、その類の平凡な親切である。
 30代男子の過半数が持ち合わせているであろうと内閣府が公表したに違いないと思われる平凡な能力に過ぎない。そんなことは誰だってできる。たまたまそのイラストレイターの周りと、彼女に僕を紹介した原宿のバーのママの周りにそのような人物がいなかっただけの話だ。


 パーティー会場は、原宿のその店ではなく、新宿の「J」だった。
 やれやれ、と僕は思った。ここでよく昔の女が唄を歌っていた。タモリの関係する店である。僕は、新宿三丁目で地下鉄を降り、厚生年金会館の方に靖国通りを歩いた。僕は店の関係者に気づかれないことだけを念じて、原宿のママに案内された席におとなしく座っていたのであった。

 そこで僕はユウコに出会った。ユウコは目鼻立ちのはっきりとした顔だった。まあ美人といっておかしくはない。
 また、ユウコは、やたらと愛想のいい女であった。年は僕と同じくらい(正確には一つ、上だ)だが、とても親切であった。僕にさえ、とても親切であった。僕は、彼女に壷でも売りつけられるのではないかと疑ったことがあるくらいだ。ずいぶんと失礼な話だけれども、そのくらい彼女は僕にとてもよくしてくれていた。
 ユウコは僕だけでなく周りの友人をとても大切にしているようであった。いろいろなことに好奇心も旺盛で、いつも周りに気を遣っていた。そのせいで、僕から見ればということではあるが、無用なトラブルを抱え込むこともあった。また、ある種の部分ではとても頑固で譲らないところもあった。そんなところを見る度に僕はハラハラしたが、それでも彼女の努力は大したものであると思っていた。

 そのユウコの友人がマヤであった。

 マヤに初めて出会ったのはいつだったか?僕は記憶を掘り出してみた。しかし、それは考えるまでもなかった。、それはついこの間の、6月の金曜日だったのだ。

第三章 原宿から新宿、そして鎌倉へ(6月)

 「J」でのパーティーの後、僕はユウコと時々会って、酒を飲んだりドライブに行ったりしていた。
 世の中の人間は、実はシンプルに二種類に分けられる。村上春樹が好きな否かである。ユウコは、疑いなく前者であった。
 そんなわけで僕らは結構仲良くなった。

 ある6月の金曜の夜、何とか仕事に区切りをつけ、会社のある外苑前から原宿にタクシーで向かったのだった。

 金曜の夕方は、僕はいつも忙しかった。しかも昼から夕方に向かって加速度的に忙しくなるのだ。僕はある会社の、法務部で働いていた。

 受話器を置く度に、僕のデスクの電話が鳴る。社内及びグループ企業からの、相談事の電話が大半だ。
 相談内容のうち、新規案件と継続案件の比率は半々。仕入れやら販売やらトラブルやら、法律に関わること、あるいは現場では経験のない事柄、ありとあらゆる相談の電話が僕の元にはかかってきた。もちろん僕は、いわゆるテレフォン相談窓口ではないので、打ち合わせに出かけたり、現場に出かけたりすることも多かったが、電話対応をしていればよいというものではなかったが、実際問題として、電話の数はとても多かった。
 電話をしながら、僕は人の気配にちらりと後ろを見る。誰かが書類を抱えて、僕のデスクの数メートル後ろに立っている。僕と目が合うと軽く会釈をするが、目は決して笑っていない。僕への電話が余りに繋がらないために、業を煮やして他のフロアや近所の関連会社のビルからやってきた相談者だった。
 やれやれ。
 このように、実力行使されると相手をしないわけにはいかない。僕は身振り手振りで後から連絡する意思を伝えて、再び電話に集中する。
 また、あまりに電話が繋がらないために、僕の周りのデスクに電話をかけてくる奴もいる。それは同僚の受け答えでわかる。「あいにく・・・は電話中です。折り返しさせます。」云々。
 同僚も決して暇ではないのだ。申し訳ない。親切な同僚の女の子が小さな丁寧な字で。折り返しの名前と番号を記したポストイットを僕のデスクに貼っていく。
 相談事の多くは、もちろん一回の電話くらいでは終わらない。足かけ三年くらい、継続的に聞いている件もあれば、一度終了したと思われる案件が蒸し返されることも多かった。
 それに加えて、メールで相談事項を資料と一緒に送ってくる人もいる。こちらは北は北海道から南は沖縄までの支店からの相談事が中心だ。地方支店を蔑ろにするわけにはもちろんいかない。
 僕はそれらにざっと目を通し、不本意ながら処理の順番をつけていくのであった。

 本当に、やれやれやれやれである。

 僕に電話や相談が多いのは大した理由ではない。可能な限り、丁寧に答える。ただそれだけでだった。案件によって選り好みをしない。本当にそれだけのことであった。That’s all。
 正確に言えば、僕にだって好みはあるし、得意不得意もある。しかし、少なくとも仕事上、それを表明してはならないだけである。僕はプライベートでは決して親切で平等な人間ではないのだけれども、不思議と仕事では別の自分になることが出来た。

 僕のしている仕事は、法律の仕事といっても、大したことではない。僕は弁護士の資格も持っていないし、年齢的にも大した実務経験もなかった。
 学歴も大したことはない。元々は、研究者になるつもりで大学に残るつもりであったが、結局、諸処の事情で、大学院を二つもいったあげくに中退しているのだ。ろくなものではない。
 僕が考えていることは愚直に目の前の仕事を片づけるだけだった。自分の所属する会社とグループ会社において、現場の人が直面している案件に対し、ささやかな法的なアドバイスを与えることだけが、僕の任務だった。僕は村上春樹の言うとおりなるべく便宜的に振る舞った。よけいなプライドを捨て、便宜的に振る舞うことで、確かに世の中はうまく回るのであった。

 僕に電話をしてくる人の第一声は、内容の点で、奇妙なくらいによく似ていた。皆、異口同音に「弁護士に質問しても構わないか自信がないので・・・」とか「弁護士に相談していたのでは間に合わなくて・・・」と前置きをしてくるのだ。
 人によっては、そういった言い方は、いかにも間に合わせ的で怒る人もいるかもしれないけれど、僕は決してそう思わなかった。
 僕らはー社員同士だーはチームで仕事をしているのだ。良くも悪くも会社というのは全員野球なのだ。すべて一人で出来るスーパースターがいない代わりに、すべては他人との協調で成り立っているのだ。
 本当にそうなのだ。
 それが嫌なら、自分で小さな会社でも興すしかない。東京やらニューヨークを捨て、発展途上国に行くしかない。
 確かに、会社の規模が大きいために自らの仕事以外の部分については、さっぱり分からないといった部分もあった。しかし、僕の仕事に関しては、会社の規模が大きい分、年に数回ではあるが、どの文献にも、どの判例にもでていないような新しい事件に(正確には新しい学問的萌芽を含む事件に)出会うことが出来た。
 僕は、そのことに、密かに満足していた。
 大企業で働くのも悪くない。東証一部上場企業というのは伊達看板ではないのだ。会社の規模が大きい分、トラブルもまた多様であった。
 そのように思える僕は、幸せかもしれなかった。弁護士と議論をしたり、法律情報の広報紙を編集する仕事の中で、僕は以前の夢ー研究者になることーの一端をささやかに実現できているかもしれないと密かに自負していた。
 負け惜しみかもしれないけれど、人生の夢は様々な形で実現できる。東京から名古屋に行くルートは東名高速だけではないのだ。中央道だって一号線だって、甲州街道だって名古屋まで行けなくはないのだった。
 しかし、そのようなことは一度も口に出したことはなかった。

 とにかく、僕は、会社の中で使いやすいゴミ箱のような立場にいた。皆、よく分からなくなると僕のところに案件を持ってくる。それらの事件の多くは、先例がなく、弁護士に聞いたところで、あるいは裁判所に聞いたところで、すんなりと答えのでてくる代物ではなかった。それ故僕がそれを放り出すことは出来なかった。僕が放り出したらどうなるのだ。
 僕はいつも自らにそう言い聞かせていた。僕はいつもぎりぎりで仕事をこなしていた。仕事がうまくゆく度に単に自分はラッキーだっただけだと自らに言い聞かせた。
 ボールを持ったらゴールまで走るしかないのだ。ゴールがどこにあるのか考えてはもちろんいけないし、ゴールがなくても走るのだ。大切なのは走り続けることなのだ。スピードは遅くなっても構わない。歩いてもよい。しかし、無意味に立ち止まってはいけない。

 僕はそれらを自らの経験から学んだのかもしれない。たとえば、僕の抱えている病は、完治不可能なものであり、時々自分を押しつぶしそうになった。病気自体は僕のせいではない。しかし、そこから逃げることは出来ないし、それは僕の過失ではないにせよ、僕自身の責任なのだ。僕は自分自身から逃げ出すわけには、何があってもいかないのだ。


 とはいえ、そのような信念は別として、現実問題として、仕事は常にハードであった。日々の実践として、常に現場の声に耳を傾け、相手の分かるように説明をし、可能な限りの処方箋を出す。それを誰が相手であっても平等に行うには、相手に合わせるという意味で、非・平等な努力が必要であった。

 僕に相談してくる人の多くは、自らの抱えている案件について、法律の知識はなくても、決して大きく誤ることはない「一応の」結論を持っていることが殆どであった。感覚的には彼らの多くは90%程度は正しかった。
 しかし、彼らの多くはその結論=感覚を他者に説明する術を持ち合わせていなかった。そこで、僕はただ、彼らの感覚に言葉を与える。法律という、デコレーションを付して、である。
【日記の最新記事】
posted by akao at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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